2018/11/16 09:02 午後

グラバーの話、第2回東京ドイツゲーム賞の一次審査のこと。

  • 2018/04/20 05:04 午後
  • 投稿者:


http://www.newgamesorder.jp/games/glover

お知らせしていた通り、先日「グラバー」のルールブックPDFをアップロードしました。ご興味ある方は、よろしければご一読下さい。

さて、前回は前置きとして私の思う所を色々書きました。
あちらと公開したパッケージ、ルールブックを踏まえ、このグラバーというゲームの制作について、お話しして参りましょう。


●第二回東京ドイツゲーム賞・一次審査の話

自分が初めてこのグラバーというゲームを認識したのは勿論、2016年に開催した第二回東京ドイツゲーム賞の一次審査(書類審査)においてでした。
はっきりと憶えています。応募されてきた全てのゲームの中で、最も鮮明に憶えている。
何故なら自分は、手に取った応募書類を一目見て、即座に「通過」と言ったからです。
本当に、5秒も経たず、ぱらっと見ただけで判断が付きました。それ程に、自分にとっては決定的な応募書類だったのです。

東京ドイツゲーム賞の一次審査というのは、「可能性を感じたものは通過」という基準を敷いています。
(先刻ルールブックを公開しておいてなんなのですが)自分達は、
「本当に面白いゲームかどうかは、ルール文面を読むだけでは判断できない」と考えているからです。
これは過去の東京ドイツゲーム賞の審査の経験からより鮮明になった立場でもあります。
そのゲームにおける手続き。そこで何において優越したプレイヤーを勝者として評価するのか。
ゲームの一連を通じ、プレイヤーのいかなる心理的な体験を、いかに実現すべく狙いを定めているのか。
ルールを中核とした書類でアピールしてもらい、その内実を測りはするわけですが、
それが実効性を持つゲームのルール足りえているのかどうかは…、まあやはり、やらなければわからないわけです。
TVでいかに美味しそうな食レポを眺めても、美味しくは無いように。
食レポの達人であれば、もしかしたら美味しくない料理をあたかも美味しいかのように、視聴者に見せられるかもしれません。
遊ばねばわからない、しかも、そこに「面子」という野蛮な乱数を掛け合わせなければ実体を持たないのが、ボードゲームというものです。

それでは、そのグラバーの一次審査書類から、自分は何を感じたのか。
それは「自分のゲームの魅力に気付いて欲しい」「自分のゲームを楽しんでほしい」という、あふれ出んばかりの応募者の願望でした。
自分のゲームが私たち審査員の目に最大限に魅力的に映るようにという、工夫、心遣いが凝らされていた。
ラフとは言えゲームの持つムードを伝えるべくいくつものイラストが付され、プレイ風景がルールブックの余白に図解され、
程よいキャプションが付けられ…、そこには幾分のユーモアも見て取れました。

それでいて、ドイツボードゲームの文法を外していなかった。
ルールブックの構成からも「自分はドイツボードゲームの何たるかを自分なりに理解し咀嚼した上で、オリジナルのゲームをデザインしています」
ということが明確に伝わってくる。明らかに基本を知っている。そしてその上で敢えて、基本から踏み出すことに成功している。
躊躇なく自らの魅力をアピールしてきているのに、全く嫌らしさが無い。むしろその屈託の無い貪欲な手つきに対して、好ましさしか感じませんでした。


 ↑一次審査に応募されてきた際のグラバーのルールブックの一部

最上級に良い意味で、一次審査において「グラバー」は完全に浮いていました。
他の全ての候補が「礼儀正しく」、しかしながらグラバーと比較すれば「おずおずと」応募書類を出してきていた。
グラバーだけが、作者の人格、性格の良さと言ったものを端々ににじませながらも…、「『大暴れ』している」。一見して、自分はそう感じ取りました。

他の全ての候補が、書類審査において、言わばこの東京ドイツゲーム賞の審査の「序盤」然と振舞っている中、
グラバーだけが、「この瞬間に、全力で勝負を決めに来ている」。そのようにすら、自分の目には映りました。それが素晴らしかった。
別に私たちは「一次では序盤らしく振舞え」と言ったつもりはありませんでしたから。そんなルールは言ってない。本当は自由。

ボードゲームをいくつも出版してきて、考えてきたことがあります。
どういった条件を満たした作者が、群を抜いて面白いボードゲームを創造し得るのか。
ボードゲームに対する深い造詣を持ち、自らの意図したゲーム・セットを自在に完成させる技量を持っているということ、
…それは核では無いのかもしれないと。優れた技量にはもちろん敬意を抱くべきですが、技量は万能ではないのではないか。

一番大切なのは「遊ぶ人たちに、存分に楽しんでほしい」という願いを、どれだけ強く持ち続けながらゲームを生み出すか、なのかもしれない。
何としてもあの人たちを、喜ばせたいと。
そういう、エンターテイナー精神にあふれた人が、技量を兼ね備えた時、最高のゲームを生み出す可能性を持つのではないか?
ゲームを作る時。ゲームを遊び、ゲームを現出させてくれる人たちの幸せを、あなたは願っているか?
その「共作者たち」に、感謝しているか?その人たちのゲームを遊ぶ力量を信じる、勇気を持っているか?

「自分が作ったゲームをプレイヤーがどうするかは知らないよ。関知するところではない。自分は自分のやるべきことをやるだけだ」

こういう気持ちでゲームを作っている作者の方、珍しくないのでは、と思います。
おかしいとは思わない。気持ちは痛い程わかる。直視したら「あんまりだ」と思うようなプレイング。
余りにも雑な、それでいて断定的な評価。ゲームを世に問うたことがあれば、必ず目に入るでしょうから。
失敗作があふれる程に出回る状況だけに避け難いとはわかりつつも、その失敗作と一緒くたにされる価値あるゲームもまた、目にすることは珍しくない。

ただ作者が、プレイヤーと幸せな関係を結ぶことへの期待を止めて、あるいは期待を抑えて作るゲームには、
(少なくとも私たちがホームとするユーロボードゲームの領域では)、そう高くない所に限界があるのではないかと、自分は考えるのです。
プレイヤーが応えてくれない、自らの意図が一方通行となる、そういった悲しみに挫けず、プレイヤーへの期待を続けること。
「我が意を得たり」と感じさせてくれるプレイヤーの方々との、ゲームを介した合力を、強く念じること。
そういう有難いプレイヤーは、あるいはプレイヤーのグループは、ゲームを長く遊んでいるとか、たくさん持っているとか、
勝ち方を知っているとか、そういったこととは無関係に、世の中に点在している。
その人たちに、このゲームを届けたい。その人たちに、遊んでみて欲しい。喜んで欲しい。
そしていつかそういう人たちが、少しずつでも、一人ずつでも、増えていってほしい。
自分は、こういった願いがボードゲーム作りの肝だと、考えています。

一次審査を経て、自分はグラバーがきっと面白いゲームであろうと、確信したか?
答えはノーです。遊んでいないから、わかるわけがない。ただ、「このゲームが面白かったら、素晴らしいんだけどな…」と思いました。
「グラバー、面白いゲームであってくれ」と願いました。その期待が、一瞬で自分の中に生じました。
上に書いたような自分の「面白いゲームを作り得る作者とは…」という考えに、この上なく合致するものを感じたからです。
これが私が持った、グラバーへの第一印象でした。

というところで一回切りましょう。すぐに続きを書きたいと思います。

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